大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

最高裁判所第二小法廷 昭和57年(あ)752号 判決

主文

本件上告を棄却する。

理由

弁護人山口勝寿の上告趣意は、原審が検察官申請の重要証人のすべてを取り調べ十分の審理を遂げながら、第一審判決を破棄したうえ直ちに自判することなく、事件を第一審裁判所に差し戻したのは、被告人に対し迅速な裁判を受ける権利を保障した憲法三七条一項に違反する、というのである。

そこで、検討すると、記録によれば、本件は、被告人が被害者に対し有形力を行使したこと自体に争いがなく、ただ、刃物による殺人の実行行為を行つたのが被告人である(第一審における検察官の主張)のか、現場に同道していた及川和弘である(被告人の主張)のか、あるいはその双方である(原審における検察官の主張)のかが争われた殺人ないし傷害致死の事案であるところ、第一審においては、約八年間を費して詳細な事実審理を行つているうえ、原審においても、約二年間を費して、検察官申請の証人のすべて(五人)と書証数通の各取調べ及び双方申請による詳細な被告人質問まで行つていることが明らかであつて。これを第一審に差し戻しても、実質的に意味のある新たな証拠の提出される蓋然性が必ずしも大きくないと考えられること(なお、原判決の示唆する被害者の死体の刺創痕からする兇器の種類の再鑑定も、右死体が現存しない以上、しかく容易であるとは認められない。)をも考慮すれば、本件はできる限り事件を第一審に差し戻さないで処理するのが相当な事案であつたというべきである。したがつて、原審が、前記のような詳細な事実取調べののち、被告人の主張に副う事実関係を認定して傷害致死の限度で共同正犯の成立を肯定した第一審判決とは事実認定を異にし、被告人自身も及川と共同して殺人の実行行為に及んだ可能性が極めて高いという理由により第一審判決を破棄しながら、前記のような兇器の種類の再鑑定の必要性等を指摘して事件を第一審に差し戻すこととした措置には、批判の余地もありうるところである。

しかしながら、具体的事件における審理の遅延が憲法の迅速裁判の保障条項に反する事態に至つているか否かは、遅延の期間のみによつて一律に判断されるべきでなく、遅延の原因と理由などを勘案して、その遅延がやむをえないものと認められないかどうか、これにより右の保障条項がまもろうとしている諸利益がどの程度実際に害せられているかなど諸般の情況を総合的に判断して決せられなければならないことは、すでに当裁判所の判例(昭和四五年(あ)第一七〇〇号同四七年一二月二〇日大法廷判決・刑集二六巻一〇号六三一頁)の示すところである。このような見地にたつて本件をみると、まず、記録によれば、本件の公判審理がかくも長期に及んだ主たる原因は、捜査段階における被告人側の積極的な罪証隠滅行為や被告人及び及川の供述の大幅な変遷(なお、被告人らの右各供述の変遷が、捜査官の不当な取調べに起因するものであるとは認められない。)等によつて、事案の真相の解明に困難を生じた点にあると認められるのであつて、第一審裁判所の審理にやや円滑を欠いたきらいのある点を別とすれば、検察官の訴訟活動及び裁判所の審理の方法にとくに問題とされるべき点があつたとはいえず、右審理の遅延は、ある程度やむをえないものであつたといわざるをえない。次に、本件については、すでに、被告人の弁解の聴取及び関係証人の取調べ等の点を含め、詳細な実体審理が遂げられており、これを第一審に差し戻すこととしても、そのために今後審理が格段に長期化するとか、被告人が防禦上著しい不利益を受けるおそれがあるとまでは認め難いというべきである。さらに、原審が慎重な事実調べののち改めて事件を第一審に差し戻すこととした措置には前記のような批判の余地がありうるとしても、第一審判決後本件殺人の共同正犯者として起訴された及川が、原審公判廷において、被告人と共同して本件殺人の実行行為を行つた旨従前の供述を大幅に変更する新たな供述をするに至つたなどの事態にかんがみると、原審の右措置は、第一審に係属中の同人の事件との併合審理によつて本件事案の真相の解明と事実認定の統一を図ろうとしたものとして、合理性がないとはいえない。

以上のほか、記録に現われた諸般の事情を総合して考察すると、原判決によつて憲法三七条一項の迅速裁判の保障条項に反する異常な事態を生じていると認められないことは、前記大法廷判例の趣旨に徴して明らかであるというべきであり、所論は理由がないことに帰着する。

よつて、刑訴法四〇八条により、主文のとおり判決する。

この判決は、裁判官宮﨑梧一の補足意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。

裁判官宮﨑梧一の補足意見は、次のとおりである。

私は、法廷意見に賛成するものであるが、なお若干の私見を附加しておきたい。

まず、現行刑訴法上控訴審の構造は、事後審として構成されているのであるから、控訴審において第一審判決の事実認定に疑いを抱き、これを維持することはできないが、さりとて、直ちに自判するまでの心証には到達できない場合に、第一審判決を破棄して事件を第一審に差し戻すことは、控訴審としてなすべき当然の措置ということができ、その視点からみれば、本件における原審の措置には、なんら問題とすべき余地はないとも考えられる。しかしながら、憲法三七条一項の迅速裁判保障条項の趣旨ないし精神は、この場合においても尊重されなければならないのであつて、第一審において長期間にわたる実体審理を遂げたうえ、控訴審においても当事者双方が十分に主張・立証を尽くしているため、事件を第一審に差し戻してももはや実質的に意味のある新たな証拠の出現が期待できないような場合には、控訴審としては、可能な限り控訴棄却又は破棄自判の判決をして、事件の最終的解決を図ることこそが、単に訴訟経済の原則にかなうばかりでなく、右憲法上の要請に応えるゆえんであると考える。

次に、原判決は、原審証人伊藤順通の被害者の死体の各刺創は二種類の兇器によつて生じたものと推定される旨の証言を重視し、兇器の種類について再鑑定をする必要性があることを、及川の原審における新証言の慎重な検討の必要性とともに、差し戻しの理由の重要な柱としている。たしかに、被害者の死体の刺創痕から兇器が二種類存在したことを確定できるとすれば、本件犯罪の実行為者が二人であることを推認させる有力な間接事実であるということができ、これによつて、実行行為者は及川だけであるとする被告人の弁解が根底からくつがえる可能性があるのであるから、右鑑定の必要性は、決してこれを過小評価することはできない。しかし、創口の形から兇器の種類を推定することは一般に考えられている程容易なことではないとされているものであるところ(上野正吉・新法医学六九頁参照)、本件においては鑑定の資料となるべき死体が存在しないのであるから、当然のことながら、右再鑑定にはかなりの困難を伴うことが予想される。のみならず、右伊藤証言における兇器を二種類と推定する論拠が必ずしも明確とはいえないこと、鑑定の経過に関する供述にもやや明朗を欠く点が窺われること、右の結論が兇器は一個であるとの前提に立つ及川の原審における新証言更には被告人の一、二審における一貫した供述とも矛盾していることなどの点を併せ考えると、前記再鑑定の必要性を強調して差戻しの理由とした原判決の措置には、やはり疑問の余地があることを否定できないと考える。

最後に、法廷意見の指摘するとおり、差戻しを命じた原判決によつてはいまだ本件につき憲法三七条一項に反する異常な事態が生じているとはいえないとなすべきであるが、本件は従来の事案のように、第一、二審における長期間の審理中断等、いわば当該事件の過去における迅速裁判保障条項違反が問題とされているのではなく、これまでの綿密詳細な実体審理ののち更に事件を第一審に差し戻すことによる、いわば将来における若しくは将来にわたる迅速裁判保障条項違反が問題とされている事案であることに留意するときは、願わくは、差戻しを受けた第一審裁判所としては、本件に関する差戻し前の審理状況に鑑み、極力原判決によつて指摘された疑問点の解明に努め、可及的速やかな判決言渡しに漕ぎつけるべきことを希望してやまない。

(宮﨑梧一 木下忠良 鹽野宜慶 大橋進 牧圭次)

弁護人山口勝寿の上告趣意〈省略〉

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例